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前回、雑誌を読む事から世界情勢に関心を持つようになった事を書いたが、その第2弾。 音楽からである。 ’80年代後半の音楽は混迷を極めていた。 アメリカを中心とする洋楽の世界では、ホイットニー・ヒューストン以降、大物歌手のデビューが無かった。ハードロックバンドの出すバラードのシングルがナンバー1になったり、商業化路線に行き詰まりがあった。一方で、ニュージャックスウィング(日本では知られていないが、ジャネット・ジャクソンのデビューは、ニュージャックスウィングの始まりと共にあり、プロデューサーのジャム&ルイスが今でも大きな活躍をしている。このジャム&ルイス、Guyを出発して後にはマイケル・ジャクソンのプロデューサーを勤めたテディ・ライリー、BoyZtoMenやTLCをブレークさせたLA&ベイビーフェイスがこの時代の代表)、オルタナティブロック(ニルヴァーナやメタリカを崇拝する人が多い中で、R.E.M.やB-52’Sのヒットが無ければ今日のオルタナティブロックは無かったのは事実)など新しい傾向の中で、冷戦崩壊後のイギリスとフランスでは、ワールドミュージックの最初のブームがあり、アメリカのヒット=世界のヒットという図式が崩れかけ始めた。 日本では、「イカ天」に象徴されるバンドブームで、ニューミュージックの時代が終わりを告げると共に、レベルそのものは落ちていった(今でも活躍しているのはハイ・ロウズ(当時はもちろんブルー・ハーツ、奥田民生だけになったユニコーン、イカ天出身ではBEGINなど数える程度。あの頃が少し混乱していてのがわかる。)。従来の路線を引き継いでいる、佐藤竹善ひきいるシング・ライク・トーキングやドリームズ・カム・トゥルーが今でも活躍しているところを見ると、みんなが求めている音楽にはあまり変化がなかったのである。 そんな中、’90年代半ばから私が傾倒していったのが、ブラジル音楽である。このブラジル音楽を中心に世界の音楽を取り上げる雑誌「LATINA」が、今や政治的、思想的に大切なメディアとなっている。今でも、大都市の大型書店か、HMVやTOWER RECORDで売っている、音楽専門誌だが、その内容は普通の音楽誌とは一線を画している。Amazonあたりでも扱っていない、ミニコミ誌に近いので(出版社もLATINAという自主出版だからミニコミ誌そのものかも)、世界情勢を音楽と同時に知ることの出来るメディアだ。 ブラジル音楽中心といえども、その視野は広い。「LATINA」というだけあってラテンアメリカ音楽には断然強い。アルゼンチンにおけるタンゴの位置づけや、かの国においてザ・ブームの宮沢和史が作った日本のヒット曲でもあり名曲でもある「島唄」がそのまんま「Shima Uta」としてアルゼンチンのコメディアン兼歌手のアルフレッド・カセーロによって歌われて(日本語そのままで)大ヒットしたのをいち早く報じたのがこの雑誌(後日談になるが、日本と韓国で行われたワールドカップで、アルゼンチン代表のサポーターズソングになったのはサッカーファンでは有名な話、その後、アルフレッド・カセーロは宮沢和史の案内によって、沖縄を訪れ、「島唄」の本当の意味を聞いて、陽気な彼もじっと押し黙ってしまった。戦争を語り継ぐ大切さを彼も身にしみて感じたらしい)。また、キューバ音楽ももちろん強い。「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」は音楽の方が先で、映画はアルバムを聞いた監督が映像化を強く希望してヒットしたのであり、「LATINA」はライ・クーダーがキューバ音楽を取り上げた時点から、追跡取材していた。 キューバといえばサルサ。オルケスタ・デ・ラ・ルスの頃からサルサを重点的に報道していた「LATINA」は今のサルサダンスのブームには警鐘を鳴らしている。音楽としてのサルサが好きな人はサルサを良く理解しているが、サルサダンスを日本でやっている人たちの、サルサ音楽に対する理解の低さに対し、「サルサは音楽と踊りが一体となったもの。両方を理解しないでダンスだけ真似するのでは、あまりにも寂しい。」実際、キューバの音楽学校へ本気で留学する人は後を絶たないが、ダンスで留学する人は短期滞在で日本に戻ってきているのが現実であり、ブームがブームで終わってしまう事を懸念する専門家は多い。 ワールドミュージックを扱う「LATINA」はラテン音楽だけではない。フレンチ・ポップス(セルジュ・ゲンズブールの存在を私が知ったのはこの雑誌のおかげ)、カリブ海の音楽、韓国のポピュラーミュージック、台湾の音楽事情、タイやインドネシアのミュージシャン(例えばフェビアン・レザ・パネとかクラシック界では有名なヨー・よー・マとか)、もちろん沖縄音楽については、ものすごく記事が多い。 沖縄については、キロロや今のオレンジレンジといった全国的な人も報じる一方で、喜納昌吉、照屋林賢、ネーネーズ、ネーネーズからソロに転向した古謝美佐子(夏川りみでヒットした「童歌」のオリジナルがこの人)、カチャーシーの新しい動きや、基地問題を取り上げて、沖縄音楽のルーツに迫っている。 こうした、マイノリティを取材している、「LATINA」の編集者達も、日本において、趣味志向がマイノリティであるために、雑誌内のコラムも当然そうしたものになる。 「木立玲子の気ままにヨーロッパ」では、フランスで働く筆者が、ヨーロッパの移民問題、フランスの国営放送で働いて経験に基づく、フランスのジャーナリズム、ロマ(ジプシー)の話題が必ず出てくる。「アンチ・グローバリズム」という傾向をいち早く報じたのもこのコラムである。最近では、シルヴィ・バルタンの60歳の誕生日の祝典の模様が取り上げられた。 「南のポリティカ」では、古くから論じられている「南北問題」(経済格差から来る難民、政治問題)を取り上げている。スローな暮らしを行う”南”の人の気質まで取り上げ、効率主義に対する提言を行っている(「南のポリティカ」は本として発売される事になったので、国際問題に感心のある人は必読です)。最近では、キューバのカストロ議長の巧みでしたたかなアメリカ対策を知り、カストロ議長がいまだに健在で、マイノリティにとって、重要な思想的リーダーである事が、改めて確認された。 「ブエノス・ディアス・ニッポン」では、人権問題に取り組む弁護士である筆者が、日本に在住する外国人の人権について書いている。多くの人が知らない事実をここで知ったので聞いて欲しい。 在日コリアンは、その97%が出身地が現在の韓国であり、戦前から日本に住んでいたため、国籍を選ぶ事は、どちらの政権を認めるかで決まったのである。李承晩に賭けるか、金日成に賭けるか。出身地は関係なかった。現実問題として、在日の彼らは、韓国へ帰っても”在日”という事で差別を受け、北朝鮮においては、低い身分制度の下の方に位置づけられている。生まれも育ちも日本で、祖国へ帰っても歓迎されるどころか、売国奴扱いされてしまう。国籍は日本ではない彼らは、本当に帰る場所が無いのであり、故郷を失っているのである。彼らが政治難民でないとどうして言えようか。この事は、先日自殺した、元祖天才少女小説家、鷺沢萌の著書に詳しく書かれている。鷺沢萌の自殺の原因の一つが、北朝鮮問題に揺れる、在日の人であったと私は推測している。 また、最近では日本で働く「出稼ぎ」の人の親権問題について書かれていた。ついこの前、タイ人の少女の在留資格を巡る問題がマスコミでやっと報じられ、この問題が世の中に知られるきっかけとなったが、日本国籍を持つ祖母がいる彼女はまだマシなほうである。フィリピンを始めとする東南アジアやコロンビアを始めとする南米から出稼ぎに来て、日本人男性と結婚し、子供を産んだが、その後離婚(もしくは籍さえ入れてもらえなかった)人たちの親権問題が書かれていた。彼女達は、子供を祖国に帰さざるを得ず(育てるだけの時間もお金もない、何しろ母親である自分以外に頼れる人がいないからである)、しかし経済的に祖国では職がないのが実情で、日本で働くしか、離れ離れになった我が子を育てられないのである。子供は祖国の親や兄弟など親族が面倒を見てくれるが、肝心の彼女達の在留資格が問題になっている。多発する外国人犯罪に対し、日本政府は不法滞在を摘発するだけではなく、出稼ぎ労働者自体を在留資格を厳しくする事で解決しようとしている。日本政府並びに裁判所の見解は、子供と離れ離れになっている以上、親子の愛情が感じられず、経済的理由にのみ日本に滞在するのは限定された期間だけである、という態度である。しかし、筆者は疑問を呈する。日本の農閑期、東北地方の農家の人たちが大挙して出稼ぎして、冬の間働いたお金を故郷にすむ家族に送金し、不本意にも子供と3ヶ月以上離れ離れに暮らしていて、そこに親子の愛情が無かったか、という事である。離れ離れ=親子の愛情が薄い、という事ではないのである。むしろ、子供にとって親のありがたみを身にしみて感じる時期だったのではないか、という事である。人権問題=人道問題であり、人としてのもっとまともな待遇が彼女達には与えられるのが、政治というものではないか、というのである。 このように、マイノリティや日本の底辺に属する人の事を取り上げる事にかけては、どんなメジャーなメディアでも無く、コミュニティ的な活動は、その力が大きくなって初めて認識されるのであり、こうした「現在も日本が犯している外国に対する犯罪」について報道しているのは、実は報道の専門家ではなく、こうした文化面から外国を愛している人たちによる、雑誌などがもっとも進んでいて、訴求力がある。 私は決して「LATINA」の回し者でも何でもなく、この雑誌によって、コスモポリタンとは何か、という事に初めて目覚め始めたのであり、雑誌という文化の面から、つまり自分の好きな分野から外国を知ると、当然今の世界が歪んだまま動いているのが誰でもわかると同時に、何が大切か、という事をそれぞれ発見できるのである。これは必ずしも外国に目を向ける、という事でなく、自分たちの問題に置き換えてみれば、日本にもたくさんの問題、自分たちの身近にある危険について、本当の問題意識を持てる。NHKの受信料を払いたくない本当の理由とか、サッカーの日本代表を応援する事はいいが、それとナショナリズムは別の問題だとか、税金や年金が今後どうなるのか、という事をいやが応でも関心を持つようになる。 雑誌が、読者の覚醒を待っている。テレビからジャーナリズムは感じられない。視聴率主義に、嫌悪感を感じた、本当のジャーナリストは、そんな端っこの雑誌から、重大なメッセージを投げ掛けている。言いたい事を、このように半ばもぐって言わざるを得ない状況が、日本の一番の構造問題であり、「構造改革」はここから始まらないと見かけだけになる。経済面だけで構造改革しても、人が育たなければ、日本の将来は真っ暗だ。民度が低い、と言われる日本人の、民度を上げるのは、こうした趣味の雑誌だと、個人的には思っている。アキバ系の人たちでも、実際は堪え難い問題から逃避せざるを得なくなっているからであり、アイドルに熱狂する様やアニメのキャラクターに依存する様を笑いものにすべきではない。彼らこそ、日本の社会に問題を感じている、一番の人たちであり、被害の様を生き方に反映している、日本の社会の問題の象徴的な存在だと見る。 ネアカはもういい。ダサくて結構。もう無邪気ではいられない。
by journalism-1
| 2004-12-26 14:22
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