カテゴリ
以前の記事
2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 2005年 01月 2004年 12月 お気に入りブログ
ライフログ
検索
最新のトラックバック
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
この続き しおりが無い!探しても無い!サザンの「栞のテーマ」を口ずさみながら探しても無い! ので、東京の少し知られていない話について書きます。 小林信彦の作品を読む人なら、東京が現在の様な、新宿、渋谷中心の文化ではない事は、御存知の事と思います。 私のなくしたしおり、と言うのは、関東大震災の直後の東京都電の臨時きっぷと都電の地図をデザインしたもので、その地図を見ると、東京の町がどのように出来ていったかが、良く分かります。 とにかく、当時は繁華街の中心は、日本橋。そして、浅草、上野。銀座と言うのは、日本橋の延長線上に出来た街でしかないわけです。ですから、都電もいわゆる「イーストサイド」中心。皇居を中心に江戸時代からの街があっても、東は錦糸町、北は田端、南は品川、と言う範囲でした。そして、西の果てに、渋谷があるのですね。当時の位置づけとしては、渋谷と言うのは、ド田舎の終着駅のような扱いです。飯田橋、四ツ谷、芝までが西側の町で、渋谷は郊外への拠点でした。 私は、渋谷と言うと、テレビでよく目にする、スクランブル交差点を思い浮かべる、普通の人なので、渋谷を探索した時には、意外な発見がありました。 お金に余裕があった時、「東京ブルーノート」に、何度もマイナーなミュージシャンのライヴを見に行きました。そうすると、自然に南青山や表参道辺りの地理には詳しくなるんですね。表参道のカフェは、はっきりいって、ヘンでした。だって、カフェの席が通り側を向いていて、客は通りを歩いている通行人を見ているんですよ。そんなモノ見てどうする?カフェでは、会話をしなさい。 渋谷ですが、西側は、そのまんまです。パルコに向かっていく公園通り、渋谷センター街、道玄坂、いずれも分かりやすいし、いかにも繁華街しています。しかし、東側となると、一気に寂しくなるんですね。 渋谷の東側と言うのは、東急関連の建物以外は、特にこれと言った商業施設が無くて、夜になると、犯罪に遭ってもおかしくないくらい、暗くて寂しいです。 ある時、渋谷の東側のホテルに泊まる事になって、東側で、夕食を済ませようとして、歩き回っても、とにかく店が無い。東急の施設に入れば、食べ物やくらいはあるのですが、そうした「ビルの食店街」に入るのは、おいしい店を発掘したい「旅人」として、面白くない。 ふらふらと歩いて、結局何にも無くて、行き着いたのが、どこか寂れたカレー屋でした。しかし、このカレー屋で、面白い話を聞く事が出来ました。店内にいたのは、おそらく法事を済ませた帰りと思われる老夫婦。この老夫婦と、店長が親しい間柄のようです。会話を聞いていると、老夫婦は、現在世田谷の方に住んでいるのですが、昔は青山に住んでいたようです。店長は、渋谷に店を構えたのが、十数年前。それまでは、赤坂に店を持っていたのです。 会話から分かる事は、東京の昔からの住人にとって、墓地のある、青山こそが、郊外そのものなのです。青山の東側が東京であり、青山より向こう、と言うのは「武蔵野」なんですね。ですから、青山を越えた向こうにある渋谷と言うのは、その老夫婦の感覚でいえば、「野っ原」なのです。店長も、赤坂から渋谷に店を移転して、渋谷の西側に店を持つ事は考えなかったそうです。渋谷の西側は、もう野生の動植物のあるところ、そういう感覚です。 古くからの東京の住人にとっては、寂れた渋谷の東側の方が、渋谷らしい、と感じるようです。渋谷は西の果て、そこより西に、街は無し。それが、「東京市」の人の感覚なのです。
by journalism-1
| 2005-08-10 09:37
|
ファン申請 |
||