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女子高生の7割「(正しい日本語を)知っているけど使わない」 やれやれ、選挙関係の記事を書いたら、アクセスが一気に増えてしまいました。みなさん、新聞などは参考にならないと踏んでいるのですね。 最近、テレビを見ていたら、ベッキーが言っていた、 「上戸彩ちゃんとは、お互いの部屋の合い鍵を持っている仲なんですよ〜。私が家にいない時に来ていたりして、ちょっと片づけてあったりして」 現代っ子の本質が表れている言葉だと思う。 二人とも、「嫌われるのがすごくいや」と言うタイプ。それが、ベッキーの場合は、男性的で、自分から働き掛けていって、嫌われないように、トークを盛り上げたり、コミュニケーションを保っていくタイプ。上戸彩は、女性的な受け身の姿勢で、人の望んでいるように振る舞おうとするタイプ。 男性的なベッキーと女性的な上戸彩が、「すごく親しい仲」になるのは当然で、同じ女性、という、「共通性」と、男性的、女性的、という、「補完性」の関係が成り立つので、カップルとして、理想的なのである。 今の小中学生に聞いたアンケートでは、嫌われるのは、「自分を主張するタイプ」だと言う。好感度が高いのは、「協調性があるタイプ」。 とにかく、「嫌われたくない」のだ。 しかし、これでは、肝心の思春期に、「主体性」を身に付ける事が難しく、成長しても、ベッキーのように、「一見主体性があるように見えながら、相手の反応ばかりうかがって、本来のコミュニケーションが取る事が出来ない子」と言う、「大人の話し合いが、いつまでも出来ない子」のまま、成長していく事になりかねない。 ベッキーと上戸彩の問題点を指摘しよう。 ベッキーは、「自分から働き掛けて、相手の反応を見て、うまく話を進めていく」というタイプなのだが、彼女の場合、常に自分が主導権を握っていないと、とことん弱い。例えば、男性から口説かれた場合、「自分が主導権を握っていない」ため、ドギマギしてしまう。その結果、主導権を奪い返そうと、話の方向をそらしたり、黙り込んでしまって、男性の想いを、素直に受け取る事が出来ない。ベッキーに、彼氏が出来た時、彼女は一つ大人へのステップを上がった、と見る事が出来る。 上戸彩は、「相手の話に対応して、自分の意思を伝える」というタイプで、人に嫌われないためには、精一杯努力する。そのため、好きな人にはとことん尽くしてしまう。好きな男性が出来ても、「告白する」事など到底出来ないし、意中の男性から告白されて、つきあったとしても、「男性のいいなり」になってしまう可能性が大きい。下手をすれば、少々の虐待にさえ、「耐えてしまう」事になる。男性とつきあう上で、トラブルを抱えてしまう可能性が大きい。それが、芸能生活に直接ひびく事は、十分あり得る。 簡単にいってしまうと、親が悪いのだ。今の子供は、親がケンカしたり、DVなどの現場を直接見てしまう事が多くある。また、親の方も、子供の自主性を重んじない。「人に迷惑さえかけなければ、いい」という方針で、子供の自主性を尊重しているような態度をとっても、子供から見れば、「何が、人に迷惑をかけない行為なのか」という事が分からないので、結局、自分を主張する事を怖がるようになる。もちろん、子供の中には、「エゴイスト」のタイプもおり、そうした子供は、子供社会の中で、強い違和感を感じながら育つ。本当は、「エゴイスト」タイプは、日本を出て、世界に身を投じれば、違和感なく、自分を主張出来る事を知って、スケールの大きい人間に成れる可能性が大きい。しかし、日本の子供社会の間では、「エゴイスト」タイプが最も好感度が低く、「自分勝手」という記号で、その個性を認めてもらえない。 日本の文化の土台に当たる精神である、「和」は、決して「事なかれ主義」ではない。違う要素のもの、例えば海外のもの、でさえも、うまく日本のものと「調和」させる事によって、ジャパン・オリジナルを作ってきた。「なごむ」意味での、「和」もあるが、「バラバラなものをまとめて、一体化させる」という「和」の方が、より発展的で、日本が、これだけ海外にいろいろなものを提供出来る、根本となっている。 「なごむ」という面では、日本人は、海外にいった時、その順応性の高さを証明されていて、海外で生活する日本人は、多少「日本人だけで群れてしまう」傾向があるものの、近所付き合いで、日本人の習慣にない事でも受け容れて、「和」を築こうとし、違う文化に溶け込む事が出来、日本人が、外国でトラブルを起こす、という場合、日本人の集団が「集団心理」によって、自分たちの中での「和」に油断してしまって、海外の文化に外れた行為をしてしまう、という形でしかない。それでも、そうした話を聞いた日本人は、「自分は同じ過ちを繰り返すまい」と、学習していくものである。日本人が、集団になると、過ちを犯しやすいのは、「和」の落とし穴であり、先の戦争でも証明されている。 しかし、「なごむ」精神は生き続けており、親切さや礼儀正しさにおいては、日本に来た外国人が、驚きを感じるくらいである。柔道が世界的競技になる上で、その普及に大きく貢献したのは、「礼」を重んじる所である。それゆえ、今や柔道人口は、日本よりフランスの方が多い、といった状態になっている。 「バラバラなものをまとめて、一体化させる」という面では、これまでの日本製品が、世界でその信用度が非常に高い事で証明されている。自動車などでは、パリ・ダカールラリーやF1の世界で欧米と対等に戦える、欧米以外の唯一の国である。ハード面であれば、その例を挙げればキリがない程だ。なにせ、資源がない国である。「加工貿易」が日本の経済を支えてきた。これからは、ソフト面での「加工貿易」に入っていくだろう。その昔、「イマリ」と称されて、有田焼がヨーロッパの王侯貴族に好まれたが、有田焼の技術は、秀吉が朝鮮侵略の際に連れて帰った、朝鮮の陶工によって出来た。それが、強力な輸出品と知ってからは、江戸時代の鎖国の中でも、有田焼をヨーロッパへ輸出していったのであるが、その時に有田焼の包み紙として使われたのは、その当時、日本人が日用品として用いていた、「浮世絵」の書いてある「瓦版」であった。ヨーロッパから見れば、有田焼という工芸品を包んでいる紙に、「芸術」が存在する事が、衝撃的だったのだ。瓦版に書かれていた「浮世絵」は、それまでの浮世絵の中で、描かれてきたものに「広範性」を持たせた事によって、大衆に受け容れられたために、「瓦版」の挿し絵に使われるまでになったのである。 「和」の文化が、「主張せず、まとまるために、汲々とする」方向性をもつなら、日本社会が矮小化していく事は、必然的だ。「極東の取るに足りない小さな島国」に落ち込むだろう。現代っ子に、その萌芽を見てしまう事は、大人としては危機感を感じざるを得ない。 最後に、フジテレビの「すぽると」で紹介されたエピソードを紹介しよう。 昨夜、世界柔道で、金メダルを取った、鈴木桂治は、小学生の頃、サッカーで「快速FW」として鳴らしていたという。それが、あの足技の源流だ。 サッカーの偉大なるチャンピオン、ジネディーヌ・ジダンは、小学生の頃、兄とともに柔道をやっていた。彼の兄は、柔道で、フランスの大会で好成績を収め、現在警備員として働いている。ジダンは、柔道で「足のコントロール、耐える事」を学んだといっている。 「快速FW」であった鈴木桂治は、多分、自己主張が強すぎて、団体スポーツには向かなかったのだろう。 個人主義が尊重されるフランスで、ジダンが、内向的である事はよく知られていて、彼の自己主張は、もっぱら「サッカー」を通してなされる。 考える時のヒント、が、このエピソードには、凝縮されていると思う。「調和」は素晴らしいが、「付和雷同」は、一つもいい事がない。
by journalism-1
| 2005-09-09 14:36
| 世論”評”査
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