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「人間は、他人の経験を利用すると言う特殊能力を持った動物である コリングウッド」 この続きの話です。 さて、私の音楽遍歴の話なのですが、この頃、私はテレビ番組には、ほとんど関心がありませんでした。級友と話す時も、あまりそうした話しはしませんでした。 ゲーセンから、音楽の新しい地平が開けていったのが、「体感ゲーム」が音楽を重視していたため、と言う事は、以前お話しました。 ゲーム音楽を聴くようになって、この頃のゲーム音楽と言うのは、ヤマハのFM音源と言う、ちゃっちいシンセサイザーの音が8音と、これまた粗いサンプリングの音源が5音だけの、めちゃくちゃ貧弱な条件下で、見事な音楽をやっていたのですね。 最近、テレビのBGMで、ゲーム「アフター・バーナー」のメイン・テーマが、録音し直されて、きちんとまともに聴けるようなアレンジで、流されていたので、けっこう、この辺を知っている人がいるんだな、と思いました。けっこう面白いクリエーターが当時はいて、ファンキーK.H氏やHIRO氏はとてもいい作品を作っていたのに、あくまでSEGAの社員、と言う彼らは今儲かっているのかどうか心配だったりして・・・ そういう、インストゥルメンタル音楽を聴いていた私を、ひそかに観察して、「これは、また仕込み時だな」と思っていたかは、どうだか知らないが、母は、新しい音楽の世界に連れていってくれた。 当時、NHK−FMで、「FMサウンド・クルージング」と言う、フュージョンやニューエイジ(この頃はまだそういうジャンルはなかった)を流す番組があって、これを私に聞かせてくれたのですね。これには、すぐにハマリました。さいしょから、リー・リトナーやデヴィッド・ベノワを聴かされては、これははまってしまいますよ。基本的に日本のフュージョンはなし。古いけれど、コイノニア、とか、シャカタク、とかも聴きましたね〜。 ここから、ラジオにかじりつく日々が始まります。ラジオは、この頃は、アーティストが持っている番組が多く、こうした番組は、今の「垂れ流し、音楽つなぐだけの番組」と違って、アーティストが、チョイスした音楽を流してくれるのですから、音楽的に非常に勉強になるわけです。 主に、勉強になったのは、角松敏生の番組、久保田利伸の番組、オリジナルラブの田島貴男の番組でしたね。角松さんの番組を聴いていなければ、「The System」を知らなかったでしょうし、久保田さんの番組を聴いていなければ、「TABUレーベル」や「ジャム&ルイス」「LA&ベイビーフェイス」「テディ・ライリー」と言うようなブラックミュージックについても知らなかったでしょう。田島さんには、アメリカ以外の音楽をいっぱい教えてもらったような気がします。 今の、若い子たちが、音楽を知らないのは、ラジオ番組が「完璧に」崩壊している事と、いい音楽を知っている人が、番組を担当していないからですね。そういう事で、今は、私はラジオは聴きません。 この流れで、当時流行っていた、「アメリカントップ40」も、いつもかじりついて聴いていて、その当時のチャートの事などまで覚えていますよ。例えば、これは、かなり後のことですが、Boyz to Menの「The End Of The Road」がシングルスチャート1位を4週間突っ走っていた時、TLCの「Baby-Baby-Baby」が、同じく4週間2位を突っ走っていて、ついにTLCはこの時は1位をとれなかったのですね。これが皮肉な現象で、両アーティストとも、プロデューサーが、LA&ベイビーフェイスだったのですね。個人的には、TLCの曲の方が断然好きだったのですが。 この頃、かつてピアノをやっていたので、バンドをやりたいと思うようになりました。はじめは、と思って、通信教育をやってみました。通信教育自体は、すぐに飽きてしまい、ダメになってしまったのですが、この教材が素晴らしくよかったのです。上田力氏が作っていて、イヴァン・リンスを初めて知ったのもここ。クルセイダースについて知ったのもここ。ボサノヴァ的な感覚のキーボード奏法を知ったのもここ。 その後、地元のキーボード教室に通うようになり、本格的な音楽の道に入っていきましたが、かつて、エリートで鳴らしていた私にとって、勉強になったのは、機械的な事とポップスにおける表現方法のクラシックとの違いのみ。これは、ポップスを聴けばだいたい分かる事でした。まあ、技術的には、「あ〜あ〜、らくなのね〜」と思ったのでした。 すぐに、バンドをやろうとしたのですが、当時はバンドブームで、誰でもギターを持ち始める頃で、基本的にすぐハードロックやろうとする子が多かったです。バクチクやXに憧れていたんでしょうねえ。この頃から、既に、ドリームズ・カム・トゥルーや シング・ライク・トーキングを「いい!」と思っていた私には、なかなか趣味の合うメンバーがいなくて、たいていは、ゲスト参加と言う形で、色々な所に顔を出してました。 そうする内に、高校は中退して、家にいるようになって、ラジオを聴いていたら、宮沢和史さんか、田島貴男さんかの番組で、セルジオ・メンデスの「ブラジレイロ」と言うアルバムを紹介していて、かつて、イヴァン・リンスを聴いて、そのブラジル感覚に病みつきになっていた私に、ブラジル音楽を探検せよ、とでもいうべき、運命がやって来たのですね〜。 写真は、そのセルジオメンデスの「ブラジレイロ」。20世紀後半において、ブラジル音楽の総結集と言える、名盤です。これを聴いて影響を受けた日本人アーティスト多数。シンプリー・レッドもこのアルバムの曲の一部を、自分たちの曲に使っていました。世界に与えたインパクトとしては、とてつもないものです。
by journalism-1
| 2005-10-11 19:50
| 有名人批評
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