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前回の記事、「GAPとユニクロに気をつけろ!」を書いた直後に、ファーストリテイリングのいろいろな発表があったために、普段低調なアクセスに終始している私のブログに、普段の100倍、300倍のアクセスがあったりして、アクセスが1000を越えた日には、それはもうビックリしてしまいましたよ。記事を書いた直後に、ファーストリテイリングのニュースが有ったためだと解ったのは、2,3日後。やれやれ、「地雷を踏む」とはまさにこの事ですな。しばらく、アクセス数の動向を見ながら平静に戻るまで記事を書くのをやめていたのですが、そろそろ安定してきたので、書きます。 ジョイス(Joyce) 本名 Joyce Silveira Moreno さて、自叙伝まで読んでしまっている、「フリーク」である私としては、どこから語ればいいのか迷ってしまうところです。 音楽と、人間性、と言うのは、切り離すことが出来ないものなので。 かんたんに言うと、性格的な土台、としては、「育ちのいいお嬢さん」で育っているのですが、「ほんわかした、のんびり育ったお嬢さん」とは違い、ものすごく頭が切れる人なので、「女史」などという呼び方が、日本でなされるくらいで、「女性というのは、どういう存在か?」と言うことを考える、「活動的な女性」と言う感じです。 もともと、大学で(1960年代のブラジルで、大学に通える、と言うこと自体が、それなりの階級出身であることの証明です)、ジャーナリズムを専攻していて、新聞社に助手として勤務していたのですから、当時は、かなり「トンがっていた」と思います。でも、本人も、どこかしら、単なる「女性解放」には、疑問があったのかもしれませんね。新聞社に勤務していながら、結構自分の「ジャーナリストとしての適性」に違和感があったようです。結局は、インタビューする側ではなく、インタビューされる側になったのですから、やはり「取材する」より、「表現する」ということの方が、合っていたのでしょう。 しかし、もともと音楽活動を、真面目にやっていたわけではなく、かなり育ちがいいので、音楽業界に、結構なコネがあって、半ば遊び半分で、音楽を楽しんでいるうちに、「歌ってみないか?」ということになったようです。 しかし、この辺がこの人を複雑にしているところなのですが、最初のステージで、歌った歌詞の内容が、「私の男は、私を愛してくれない。」というくだりに始まる、男尊女卑に、思いっきり「NO!」を突きつけた内容だったので、当時のブラジルでは、かなりバッシングを受けたようです。これには、さすがにまいってしまったようですが、こういうことが、かえって火をつけてしまう、と言うのが、この人が強い人であることの証です。 1960年代というのは、世界的にヒッピーの時代なので、本人も、多少の「アヤシイモノ」を嗜んだようです。この事に関しては、自叙伝が日本で発売されるにおいて、「アヤシイモノ」が、ほとんどタブーとされてきた国で、自分のファンにショックを与えるのではないかと、真剣に削除を考えたようです。彼女の音楽を始め、ボサノヴァなどの、伝統的なブラジルの素晴らしい音楽が、現在もっとも理解されているのが日本であり、そのことは、彼女にとって、日本という土地を「特別な親愛を持つ場所」にしているようで、ずいぶん、自分の過去については、日本で理解されないかもしれない部分について、そのまま掲載すべきか悩んだようです。 1960年代には、ブラジルに軍事政権が誕生した時であり、1960年代後半というのは、もっぱら民主化のデモに、彼女も参加したようです。この時期、多くの音楽家が、一時的な亡命をしていますが、彼女は、どこか、そういうところまで行かなかったようです。これも、「育ちのよさ」でしょうか。1970年には、結婚して、子供も出産したため、しばらく音楽活動を休止しています。ジョイスの音楽において、この時代までは、あまり重要ではないのですが。しかし、これが、単なる「女性解放運動」とは、違う方向へ彼女を導いていったことは確かで、「女性であるだけではなく、母である」と言う視点から、「女性の権利の拡大」ではなく、「女性らしさとは何か?」と言う方向に、彼女の視点を向けていくことになります。 この期間中も、彼女はやはり音楽界に強いパイプがあって、ヴィニシウス・ヂ・モラエスのツアーにヴォーカリストとして参加しています。もともとが、シンガーソングライターなので、実は、ギターの腕前も、半端ではなく、女性ギタリスト、と言う部門で考えても、かなり高いランクの人なのですが。のちに、それを示すアルバムがありますが、このアルバムは、録音当初、「お蔵入り」してしまったので、現在でも、持っている人は少ないと思います。 ソングライターとして活動していた彼女が、最初の、「ソングライター」として成功したのは、実は、1978年ですから、「遅咲き」といえるかもしれません。もう、結婚、出産、離婚、と、人生の荒波を、一通り経験してからなので、30歳にして、しかもまだ、「裏方」として成功した、と言うのは、彼女の「女性活動家」の部分が、軍事政権下のブラジルでは、認められにくかった、と言うことでもあるでしょう。また、彼女の音楽の根本といえる、ボサノヴァが、この当時には、完全に衰退していたこともあります。 最初の成功は、国民的歌手、エリス・レジーナ(Elis Regina)に提供した、「或る女(Essa Mulhar)」が大ヒットしたことにあります。この曲は、じつに女性としては、非常に興味深い内容になっています。エリス・レジーナという人は、労働者階級から、国民的歌手になった、いわば、ブラジルの美空ひばりのような人ですから、あまり男女同権とか、そう言った思想的なことに関心がなく、人気者であることが、もっとも重要と考えている人だったので、「女性のあり方」というものには、無頓着でした。この曲にある「或る女」と言うのは、そうしたエリスとジョイスの、女性という存在の、「途方もない見解の違い」が発端となって出来た曲なのです。家庭に入ってしまい、男を頼りにしていかないといけない、と言う既婚女性と、夢と希望を抱いて、女性の幸福を考える、少女、その対比を描きながら、最終的に、「彼女は影と光で出来ていて 泥にまみれ 十字架を背負い しかも すべてをあるがままに受け入れる」と言う部分は、エリスとジョイスの「交錯」を見事なまでに描き切っています。これが、ジョイス自身の、アーティストとしての、最大にして最初の成功である、1980年の、「フェミニーナ(Feminina)」につながっていくのですが、もう、すでにかなり長くなっているので、この続きは次回に。音楽家として、成功するのが、ここからなのですが、これまでの彼女のこうした人生を踏まえないと、この後の成功の本質が分からなくなってしまうのです。複雑な人なのですよ。 写真は、かなり昔の写真ですね。いまは上越新幹線で走っている「たにがわ」が、在来線で走っていた時の写真です。いまの「新特急水上」と同じ所を走っていました。
by journalism-1
| 2006-01-17 10:23
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