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音楽とサッカーには、密接な関係が存在するのは、実は、イングランドである。 最初から、ブラジルとは関係のない話で、恐縮ではあるが、「サッカー批評」を読むような、「イカレた」レヴェルのサッカーファンである私は、今拓海氏が書いている、フットボールを巡る音楽の話が、毎号楽しみで仕方がない。音楽好きなら誰でも知っている、オアシスのサクセスストーリーには、サッカー無しにはなかったのである。 以下、無許可で概要を引用させていただく。 オアシスの「ワンダー・ウォール」の話になる。オアシスのギャラガー兄弟は、大のサッカーファンであった。イングランド(以下面倒なのでUKにさせて頂く)の場合、階級社会が歴然と存在していて、スポーツと階級が対応している。 まあ、いわば上流階級(貴族とか、資本主義時代以前から既に力を持っていた人たち)というのは、そもそも競い合うスポーツは「野蛮」だと考えている。だから個人スポーツとして、ゴルフをする。もしくは、競馬やモータースポーツを観戦する。ときどき狩猟もする。 中流階級(資本家や政治家、とにかくとりあえず何とか形だけでも働いていれば、全く食べるのに困らない人たち。職を探すのに、困るということは無い。)は、個人スポーツではテニス、ゴルフ、団体スポーツではラグビーをやる。基本的に、彼らがプロになることは無く、スポーツ=趣味、楽しみ、として考えているので、有名なプロゴルファーやプロテニスプレーヤーにイギリス人がいないのはこの為である。 そして、失うものの無い、下層階級(労働者階級、ブルーカラーなどという言葉もある。失業におびえ、肉体労働が主で、つつましい人生を送らされることを「保証されている」。)が、一発逆転を狙うとき、まず、プロスポーツのプレーヤーという道がある。しかし、先程出て来たスポーツでは、ラグビー以外はお金のかかるスポーツなので、この階級の人が手を出すことすら出来ない。ラグビーは、UKにおいては、エリートを養成する学校の教育として行われているので、エリートを養成する学校(全寮制の私立の学校なので、学費はとてもかかる、日本の比ではない)に入るには、成績優秀、健康且つ高い人格、という条件を満たして、「奨学生」としてでしか、下層階級の子供がこうした「プライヴェート・スクール(私立校のことをUKではこう呼ぶ)」には入れないので、プロサッカー選手しか、道がない。オアシスの二人も、当然プロサッカー選手を目指していた。ところが、スポーツの世界では、だいたい10代前半には、プロになれるかどうかは、はっきりしてくるので、ボールを蹴るのをやめた子供たちが、次に手にするのが、ギターである。ポップスターを目指して、勉強なんかほったらかしで、サッカーを応援しつつ、バンドをやるのだ。 オアシスのギャラガー兄弟は、才能と少しばかりの運に恵まれて、ポップスターとして成功した。彼らの人気を不動のものにしたのが、「ワンダー・ウォール」である。とにかく、歌詞が当時のUKの置かれた状況に見事にシンクロしたこと、そして、サッカーとセックスの表現において、大衆の「ツボ」をついたのだ。「ワンダー・ウォール」というのは「終着駅」の意味があり、つまり、「ゴール」の比喩にほかならない。「ゴール」というものには、「ボールをシュートする」ということから、「ぶちこむ(下層階級の表現ですから)」事であり、つまりはセックスの比喩なのだ。彼らの歌詞にあるのは、「とにかく、迷ったり、邪魔されたり、いろいろあるけれど、前向きにゴールを目指して進んでいこうぜ」という、屈折した人生の応援歌である。当時のUKは、経済的に停滞していて(今のような絶好調ではなかった)、市民のほとんどを占める、下層階級にとって、「カベ」にぶち当たっていた時期で、「汚いやつらがいても、うまくいかないことがあっても、下を向かず、進んでいくんだ」というメッセージが、ガンガンに響いたのだ。この曲によって富豪になった、ギャラガー兄弟が、熱狂的に応援していた、マンチェスター・シティのスポンサーになったことは、いまでも美談の一つである。「マンチェスター・シティ」といわれても、音楽ファンにはピンと来ないが、かつてベッカムも在籍した、「マンチェスター・ユナイテッド」という、日本で言う巨人みたいなチームが同じ町に存在して、まあ、マンチェスター・シティのサポーターというのは、野村監督や古田が入ってくる前の、「弱いのが当たり前」のヤクルトを、東京音頭を歌いながら応援しているような状態だと思ってもらえればいい。 この手の話が、UKにはいっぱいあるから、「サッカー批評」の今拓海さんの連載が楽しみで仕方がない(ガスコインの「ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン」の話は泣けました)。 で、ブラジルの場合であるが、まず、音楽やサッカーの前に、アフリカからやって来た、当時奴隷だった人たちが持ち込んだ、今でもブラジルではすごくメジャーな、「カポエイラ」という格闘技がある。足技のみによって行う格闘技で、宗教性も持っているので(日本で言えば、奉納相撲というのがありますね)、必ずしも勝負にこだわるものではなく、むしろ神聖なものとして、黒人の中で受け継がれてきた。「足技」で全てつながった人、あなたは素晴らしい連想力の持ち主です。 そう、サンバの踊りのあのステップというのは、「カポエイラ」をやっていた人たちが、サンバのリズムを体で表現するときに、ごく自然に発生したものなのですね。だから、サンバみたいな、解釈によってはすごい単純なリズムも、「足技」の巧みな人たちに罹ると、あのような複雑難解なステップになるんですね。「足技」がしっかりするには、腰がしっかりしていなければならないから、サンバのダンサーの腰の振り方に、日本人がとてもついていけないのは当たり前なんです。そして、このサンバの複雑難解なステップを持っている人たちの前に、「ボール」があるとどうなるか。もう、ヨーロッパのリズム音痴なサッカー選手にとっては、ブラジル人がボールを中心に、サンバを踊るだけで、「物凄いフェイント」となるわけですね。ブラジルのサッカー選手に共通するのは、プレーにアフリカを起源とするサンバのリズムがあること、巧みな「足技」によってボールをコントロールする技術がものすごく高いことです。だから、サンバとサッカーは一体なので、どちらかだけが好き、というのでは、ブラジルの何たるかを全く知らないといってもいいと思います。サンバがもっとも発達した、リオデジャネイロの選手に、希代の名手、といわれるサッカー選手が多いのは、そうした経緯から、当然の事と言えるのです。
by journalism-1
| 2005-04-24 23:14
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