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久々の、音楽ネタ。しかも、ある意味、旬のネタかもしれません。「フュージョン同好会」に入れても良かったのですが、そのような小さな枠の人ではないので。 音楽業界で、最もスポットを浴びないクリエイター。それが、「アレンジャー」です。「アレンジャー」と聞いても、「ナンジャー?(ひどい、ひどすぎる)」と問い返されるので、説明をば致しまする。 作曲家(コンポーザーといいますね)が作った曲を、編曲するのが「アレンジャー」です。これでも、「はあ?」と言うところでしょう。音楽の教科書に、「編曲 ○○」と書いてあっても、「この人、何をしているの?」と言う疑問を持った人はいるはず。 作曲家といっても様々で、メロディーと大雑把なコードだけしか作らない人もいます。シンガーソングライターなら、弾き語りのレベルまで作り込んで、一人だけならもう完成品を作ってしまう人もいます。 まあ、メロディーと大雑把なコードだけ作ってこられても、これを完成品には出来ませんから、これを土台として、「肉付け」をしていくわけですね。この「肉付け」をして、完成品に仕上げていくのが、「アレンジャー」です。シンガーソングライターでも、ドラムのリズムなんかまるっきり考えてこない人も多いです。でも、ライブで、バンドで演奏するぞ、ってなった時に、演奏出来ませんよね。ここで「アレンジャー」はさっそうと現れて、「忍者戦隊のように(間違い)」さささっと各パートの譜面を書き上げて、バンド用のアレンジを施してしまうわけですね。でも、「プロデューサー」と違うのは、たいてい「人事」と「予算配分」と「最終決定」の権限がありません。だからマイナーな存在なんですね。 ところが、この地味の極みのようなポジションを自ら買って出て、それのみでプロとなり、アルバムまで出してしまった人というと、このデオダート(通称で、フルネームは、イウミール・デオダート【Eumir Deodato】)が、最初の人ではないでしょうか。 デオダート。1942年6月22日ブラジルのリオデジャネイロ生まれ。ピアニスト/作編曲者として幅広く活動。一応作曲家としても活動していましたが、10代で、アレンジの仕事をこなしていたというから、「天才」そのもの。ボサノヴァに、オーケストラやホーンアレンジを加えて、ハーモニーあふれる作品をリリースして、ヒットしたのが、ボサノヴァが世界中で注目されるようになった1964年。当時22歳。は?22歳で、世界を震撼させた?ほんとに、大した野郎です。 1967年、渡米。これが、デオダートにとって、人生の最初の分岐点となります。と言うのも、このころブラジルは軍事政権になって、アーティストが次々と亡命していったのです。アメリカで、アレンジャーとして食っていくには、アメリカの音楽を手がけないわけには行かない。しかし、20代の若者が、フランク・シナトラ(Frank Sinatra)やロバータ・フラック(Roberta Flack)、アレサ・フランクリン(Aretha Franklin)のアレンジを手がけるのですから、もう実力が充分に認められていたのでしょう。ただ、そうした中で、作曲家としてのオリジナリティが今一つはっきりしなかった彼は、その後、ブラジル音楽とは疎遠になり、「アレンジャー専門」の道へ突っ走っていくのです。 そのせいかが、当時エポック・メイキングな作品としてヒットした、「ツァラトゥストラはかく語りき(Also Sprach Zarathustra)」。映画「2001年宇宙の旅」のテーマ曲として、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss)が1896年に作った、すでに「現代音楽」の作品であったにも関わらず、とんでもない発想力で、完全に別物に作り替えてしまったのです。ここからは、当時の最先端の音楽と、「ついこの前の曲」との融合に着手します。いわゆる、「クロスオーヴァー」の先駆けであり、だから「フュージョン同好会」に入れようと思ったのですが。 「亡き王女のためのパバーヌ(Pavane For A Dead Princess)」「ラプソディー・イン・ブルー(Rhapsody In Blue)」をを完全に「軽音楽」にしてしまい、「踊れるクラシック」にしてしまいました。この二曲が入っているアルバム「Deodato 2」には自作曲もあり、「Skyscrapers」「Super Strut」は当時のテクニック系ギター少年の間では、病みつきになる作品でした。フュージョンが始まったのは、何をもって始まったとするか、諸説ありますが、ジャズとの明確な違いは、電気楽器を使用した事。エレキギター、エレキベース、シンセサイザー(このころというのは「ムーグ(moog)」とか「プロフェット(prophet)」とか名器ばっかり)を使いこなし始めたのですが、デオダートの新鮮なところは、ここにラテンパーカッションを持ち込んだ事。先にあげた二曲は、ラテンパーカッションの使い方の「教則本」のようになりました。 アレンジャーとして、アース・ウィンド&ファイアーやクール&ザ・ギャングの作品で、ブラジリアン・ミュージックとブラック・コンテンポラリーとの「融合」を果たしました。一方で、御大アントニオ・カルロス・ジョビンの作品にも抜擢。「ストーン・フラワー(Stone Flower)」など、ボサノヴァのジョビンの曲をイージーリスニングにしてしまう、と言う離れ業もやりました。 80年代、彼にとって不遇の時代が来ます。アレンジャーというポジションが、アメリカの音楽から消えていったのですね。プロデューサーがアレンジャーを兼ねる、と言うケースが多くなり、また、ブラジル人である事の強みもなくなってきました。皮肉にも、音楽が商業化していく中で、彼は時流に合わなくなってきたのです。彼は、土臭いロックとは完全に一線を画していて、洗練された音楽しかやらない。でも、流行らないと仕事が無いのがこの当時の音楽業界。彼は、すねてしまったのか、他の世界に行ってしまいます。 彼が、まるで「巨匠」のように出迎えられて、メジャーシーンに復帰したのは、実は日本人の要望に応えての事でした。作曲家兼アレンジャーとして、クレモンティーヌ(Clementine)の作品に突如登場し、彼女の作品は、世界的大ヒットになりました。実は、彼の才能をよく知るプロデューサーが、クレモンティーヌの様な、フレンチポップスとボサノヴァを合わせたような作品に、デオダートこそピッタリだと考えて、彼を「捜索」しに行ったのです。 デオダートは、ウォール・ストリートにいました。元々、アレンジャーというのは、計算し尽くす事の出来る人がやる仕事。株式相場に熱を上げていたそうです。まあ、彼らしい、アウトサイダーな生き方ですが。 復帰してからは、もう日本では、デオダートの過去の作品が次々と再発され、それらは破格の値段で取引され、今も彼の過去のアルバムは、Yahoo!オークションとかに出ると、「争奪戦」になります。小野リサ「プリティ・ワールド」のアレンジも手がけました。イギリスをはじめとして、ブラジル音楽ブームが沸き起こると、当然デオダートの再評価も進み、それらは「カフェ・ミュージック」の名前で日本で大流行しました。私なんかもそうですが、「渋谷系」を聞いた事のある世代は、「これが原点だったのか」と言う刮目させられた気分になりました。 とにかく、ヒット作の数に対して、オリジナル曲の割合が極端に少ない、「珍」アーティスト、それがデオダートです。
by journalism-1
| 2005-07-31 00:29
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