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また、「戦後特集」に舞い戻って参りました。 おふくろの戦争、戦後の体験について、書きたいと思います。 おふくろは、東京の中野で生まれました。これが、幸運だったのですね。もうこの年は、太平洋戦争の最中ですから。 祖父は、私が生まれる前に亡くなってしまい、私は8歳まで、祖父の名を知らないまま、ぼんやりとしていたのですが、おふくろの家庭の事情もあって、おふくろ、という人は、簡単にいってしまうと「ファザコン」の気質があって、祖父の生き写しみたいなところがあるので、だいたいどんな人かは分かります。 また、祖父は、短歌を作るのが趣味で、ライフワークとしてたくさんの歌を残していて、死後、母が、特に大事と思われるものを集めて、自費出版して、旧知の人に配っていて、もちろん、母はこの本をとても大事にしていて、そこには、戦時中の事も多く書かれています。 祖父は、母が生まれる前に、旧満州に行っていて、旧満州が大混乱に陥る前に、内地へ転任になったので、母が生まれたのですね。ですから、母に、祖父の歌を聴かせてもらった時、 「人間って、どうなるか分からないものねえ。運命のアヤというか。おばあちゃんの実家のほうの一族は、戦後の引き揚げで大変だったのよ。」 という事がありました。 祖父の歌には、旧満州において、こころの慰めとして、歌を作っていた事が偲ばれます。 例えば、奉吉線(おそらく当時の奉天[現在の瀋陽]と吉林を結んでいた鉄道)の列車に乗りながら、荒涼とした満州の大地を歌ったもの、ハルピンのホテルで、窓ガラス越しにロシア人女性を眺めて、その様子を歌ったものなど、とても切ない心情が感じられます。 そして、昭和20年の3月の歌でしょうか。「我が吾子は」で始まる歌は、ひな祭りのひな壇を見て、何か笑っているか、喜んでいるか、何か物心もつかない、おふくろに対する祖父の優しい視線を感じる、歌があります。 しかし、まもなく、「東京大空襲」によって、おふくろ一家は、焼け出されてしまいます。おふくろは、 「何か、よく分からないけれど、おばあちゃんに背負われて、東京の空が、赤黒く異様な色をしていたのを、何となく記憶している」 といっています。 その後、祖父の実家である、盛岡に避難し、戦後まもなく、祖父の仕事で、今の土地の近くに家族揃ってやってきたのでした。仕事での転勤といっても、社宅も無く、物置き場のようなところに、住んでいたそうです。 やがて、長屋に移る事が出来たのですが、その当時、問題は住むところより、食糧でした。祖父の歌に出てくるのですが、休日に、食べ物をもらいに、郊外の畑に行って、さつまいもと着物を交換してもらおうとするのですが、なかなか応じてもらえず、「あんなにたくさんの着物で、たったこれだけのさつまいもなのか・・・」というくだりがあります。また、三つ葉が当時六円もした、というくだりもあり、まだ、十円玉も無い時代に、食糧が、猛烈なインフレをしていた事が分かります。 母が、小学校に入った時には、何とか給食はあったそうです。しかし、お皿が一つ、何がのっていたかも記憶がないくらい、粗末なものだったそうです。記憶にあるのは、私たちも運動会の時などにある、「行事食」として、ぜんざいが出たのですが、それは、ほとんど透明のお湯にうっすらと色が付いて、小豆が三つ、四つだけ、ぽつ、ぽつ、とあるだけのもので、おふくろは、楽しみにしていた「行事食」がそんなものだった事に、とても落胆したそうです。 また、食糧がどうしようもないので、長屋の前の道路を、違反とは分かっていても、近所の人たちとともに、畑として耕して、食物を育てていたのですが、結局禁止されてしまった、という、涙が出てくる話もあります。 食糧の事は、あとは、おおむね団塊の世代と同じような「脱脂粉乳の思い出」とかなので、割愛させていただきます。 それより、平和な時代に生まれた、私が想像出来ないのは、おふくろの同じ年代の子供たちの複雑な環境です。 つまり、長屋のような貧しい家の子は、まだどちらかというと、貧しくても家庭環境には問題がなかったのですが、おふくろと親しかった、同じ小学校の子の家は、おふくろが一度だけ遊びにいった時に、 「うわあ、大きないえ。」 と思ったくらいの、屋敷だったのですが、その女の子は、家に友達を招く事はまずしなかったそうです。家の経済的状況はいいのですが、母親とは血が繋がっていないのですね。継母の下で育てられたので、何かと暗い顔をしていたのを覚えている、とおふくろは語っております。 それ以外にも、父親が戦死した子や、「第二婦人」の子や、おふくろが戦後で印象に残っているのは、そうした、複雑な家庭環境の子供たちとの、つきあいだといいます。こうした、思いやりの深さなどは、祖父に似たのだなあ、としみじみ思います。 祖父の歌集は、私が、「家宝」として、必ず守り続けようと思っています。
by journalism-1
| 2005-08-22 18:42
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