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過激なタイトルですな。でも、この人間の変節ぶりは、見るに耐えかねるものがあるので、知らない方にはぜひ知っていただきたい。 まず、ウィキペディアより、坂本龍一。 ウィキペディアの略歴より、その足跡と、数々の偽善性をあらたにしたい。 【1978年。YMO結成。1979年から1980年にかけて、YMOは2度にわたるワールドツアーを行う。】 これは、坂本龍一の本来の成功。YMOは、世界的に成功したし、高い評価も受けた。何より電子音楽の世界において(テクノと言い代えてもいい)世界的なヒット及び成功を収めたことは確かで、当時前衛的だったこの音楽のスタイルで、成功したことは特筆に値するので、この面に関しては、全く「教授」の業績に異論は無い。ただ、詳しい人はみな、YMOの成功は細野春臣の先見性によるものであることは、「はっぴいえんど」時代から日本の音楽を知っている人なら思っていることである。 【1982年には、忌野清志郎と組んでシングル「い・け・な・いルージュマジック」をリリース。】 「い・け・な・いルージュマジック」というヒット曲そのものが、当時イギリスで流行していたグラムロックをそのまま日本に「パクった」だけであり、忌野清志郎と二人でメークアップをして、ゲイのように振る舞うことをもって、日本において「先を行っている」ようなカッコをつけた時点で、単なる形だけであったことは確か。ステージ上で、坂本龍一は忌野清志郎に、「キス」をしていたが、ムリムリだったこともはっきりしている。 【1983年公開の映画『戦場のメリークリスマス』には、大島渚監督の依頼により、ヨノイ大尉役で出演。また出演の条件として音楽を担当した。】 「戦場のメリークリスマス」は、名曲として知られるが、ガムランなどのアジア音楽にヒントを得た曲であるのは、聴けばわかることである。それ自体は問題無いのだが、この頃、NHKの番組「シルクロード」で音楽を担当していた「喜多郎」の音楽をもって、彼がグラミー賞にノミネートされた時の発言は、この人間の偽善性が丸出しである。 「ああいう、日本人の持つ、【エキゾチズム】や【オリエンタリズム】で成功したいとは思いませんね」 こう言ってのけたが、本人が同じ方向性の音楽をやっていることを完全に棚に上げた発言であり、単に「喜多郎」に対する誹謗中傷に過ぎない。その証拠が、 【1987年、映画『ラストエンペラー』が公開される。坂本は甘粕正彦憲兵大尉役で俳優として出演し、また音楽をデイヴィッド・バーン、コン・スーとともに担当。この映画によりアカデミー賞オリジナル作曲賞を日本人で初めて受賞した。】 である。まず、「戦場のメリークリスマス」だろうが、「ラストエンペラー」だろうが、俳優として坂本龍一は、「エキゾチックな日本人」として抜擢されたのである。「ラストエンペラー」では、アカデミー賞を受賞したが、この音楽が坂本龍一単独のものではなく、またその民俗音楽の知識(アジア音楽の知識、ノウハウ)を期待されてサントラを任されたのであり、「オリエンタリズム」にのっかってアカデミー賞を取ったのである。また、グラミー賞には全然手が届かなかったことも確か。 【1989年、海外戦略のためヴァージン・レコードに移籍するもセールス的な成功を収めることなく数年で契約を解消している。】 これが、しょせん実力なのである。アメリカで通用する「個性」を持っていたのは、矢野顕子の方であり、坂本龍一に、アメリカで(この当時アメリカで通用する、ということは世界に通用するということでもあった)通用するだけの「素質」がなかった事は明らかである。 【1990年4月からは、音楽の拠点をニューヨークに移す。】 ここで、何をしていたか、全くわからない。単に、日本から「逃亡」しただけにしか見えない。揚げ句の果てに、ダウンタウンの番組に出て、恥さらしのコントをやったり、ダウンタウンと組んで「ラップもどき」をやって日本でヒットを飛ばすなど、「教授」の名がすたるし、音楽家として何のヴィジョンも持っていなかったことが明らかである。「悪ノリ」にも程があるし、「ラップもどき」で日本でヒットを飛ばしたことは、音楽家としてのプライドも何も感じられない。 【1999年、製薬会社三共のCMに用いられたピアノソロ曲「エナジー・フロー」を収録したマキシシングル「ウラBTTB」がミリオンセラーとなり、インストゥルメンタルの曲としては初のオリコンチャート1位を記録した。】 「癒し」ブームに上手い事のっかってヒットを飛ばしただけのこと。ブームを読む能力には優れており、つまり流行を追っかけているだけで、確固たる音楽的な基本が疑われる。YMO時代が何だったのか、と思わされる。もともとテクノのような前衛的音楽が、坂本龍一の本分だったのに、「エナジーフロー」は完全に保守的な音楽である。 このあと、「モレレンバウム2/サカモト」のクレジットで、アントニオ・カルロス・ジョビンの作品を取り上げるが、もともとジョビンが「ポピュラー音楽(大衆音楽)」として作り上げたボサノヴァの作品群を、「室内楽」に変えてしまったのは、曲解も甚だしい。ジョビンの晩年の相棒であった、ジャキス・モレレンバウムがこれに加担したのは、本当に遺憾であるが、ジャキス・モレレンバウムはもともとクラシック畑の人間であり(チェロ奏者である)、こうした「室内楽」的な音楽性は本来持っていたもの。 しかし、ヨーヨー・マがアストル・ピアソラの「リベルタンゴ」をカバーした時にも、タンゴの関係者からは、 「ピアソラの『リベルタンゴ』はあのようなイージー・リスニングのようなものではなく、原曲に会った【疾走感】が全く損なわれている」 と批判されたのと同じことである。ジョビンが「楽しい音楽」として作ったボサノヴァを、「リラクゼーション音楽」にしてしまったのは、作曲者の意図をまるで汲んでいないのである。 坂本龍一は、盛んに「世界平和」だの「エコロジー」だのをアピールして、メッセージとして発進しているが、「成功した音楽家」のまずやることを全くしていずに、このような音楽家とは全く関係の無い活動をすることは、この人間に「確固たる自分」が無いことを現している。つまり、「成功した音楽家」がまず行うべきことは、「後継者の育成」であり、音楽的な「遺産」を後の世代に残していかなければ、その成功の意味が無い。また、テクノの分野では、石野卓球などに影響を残したが、それ以外の音楽活動で、坂本龍一に影響を受けた音楽家を私は知らない。故に、坂本龍一はその音楽的業績を、後に続く音楽家たちに跡していないのであって、「成功した音楽家」としての存在価値が無い。 また、「エコロジー」などのメッセージのアピールは、U2のボノと同じく、音楽家の本分を履き違えている。政治的活動をしたかったら、既に音楽において「名声」と「評判」を獲得しているのだから、政治家になればよい。その際に、音楽を活用することは全く問題ではない。それより、「音楽家」という隠れ蓑をかぶって、あたかも「大衆の希望の代弁者」を装うことが、いかに偽善的な行動であることか。それまでのブームに乗った音楽の作り方といい、この人間に信頼を置くことは難しい。音楽家としても、である。 だから、「教授」と崇めるような人間でもないし、偉大な音楽家でも何でもない。ただその場しのぎのヒットを飛ばした音楽家であるだけで、一貫した音楽的なテーゼが感じられないので、音楽家として称賛に値するようなアーティストでも何でもない。単なるつまらない人物、「小人」に過ぎないのである。
by journalism-1
| 2006-01-02 05:59
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