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最近のジャズ、フュージョン事情が、嘆かわしいのです。御大、クインシー・ジョーンズがすっかり鳴りを潜めてしまっている。本来新しいものを出してくるはずの人が、新作をリリースして来ない。どうしたものか? ジャズは燃えているか? 先日、専門学校時代の恩師と会ってきました。私はだいぶ遅くして専門学校に入ったので、最初から学生の中に中途半端な大人が一人いるという状態でしたが、その分、学校の先生とは、心理的な距離が近かったです。 もともと、入学する以前から、食い倒れならぬ「聴き倒れ」していた私は、聴いてきた音楽の話でも、クラスメートより先生のほうが一致することが多く、中でも二人の先生とは、かなりマニアックな部分で一致していました。 一人は、フュージョンやAORを好んで聴く人で、この人の伝手でバンドを紹介してもらったり、学校以外での仕事の手伝いなどもしていました。そうですね、この「フュージョン同好会」にまさしく相応しい人で、1980年代の大人向けの音楽ばっかり話題にしていました。TOTOだとか、マーカス・ミラーとか、リー・リトナーとか。ファンク路線も好きだったようで、チャカ・カーンとかスティーヴィー・ワンダーとかの話をしていました。 もう一人の先生が、先日訪ねていった人で、ものすごくたくさん音楽を聴いている、というより、聴き倒している、といった方が良いような人で、得意分野はロックなのですが、その当時、オルタナティヴロックが日本でも流行っていた頃、 「シェリル・クロウやオアシス聴いてるんだったら、その前のR.E.MやB52'S、さらにその前のニュー・オーダーから聴いてなきゃ意味が無いぜ」 とよく生徒たちに啓蒙していました。私は、ロックはオルタナティブより、もっとポピュラーなアメリカンロックやどちらかというとポップスに近いイギリスのロックが好きだったので、その話には加われなかったのですが、ある時、 「おう、○○(私です)、お前フュージョンとかラテンが好きだって聞いたけれど、どんなの聴くの?」 「あ〜、そうですねえ、デヴィッド・サンボーンとか、ハービー・ハンコックとか聴きますよ。ブラジル音楽が大好きですね。」 「ブラジル?【エン・ペ・ベ(MPBをブラジル読みした言い方、ちなみにMPBというのは、ブラジルのポピュラーミュージックの事)】とか?」 「ええ、イヴァン・リンスとか好きですね。」 「イヴァン・リンス!?ほう、まさか生徒の口から、イヴァン・リンスの名前を聞くとは思わなかった。」 というような会話があって以来、私は「ラテン音楽&フュージョン通」としてその先生に認識されることとなりました。 さて、先日恩師の元を訪ねたのは、何か音楽関係でも何でもいいから、働く所の心当たりでもあったら紹介してくださいまし、という趣旨で訪ねたのですが、相手も授業後の時間をけっこう暇に持て余していたらしく、ディープな音楽論議になっていきました。 そこでテーマとなったのは、 「ジャズは進化しているのか?」 という、こちらから提議した話でした。この所のジャズシーンに、私は不満だったのです。というのは、1980年代に盛り上がった、聴いても演奏しても楽しいフュージョンが衰退していって、聴き心地だけは良いけれど、テクノロジーを駆使しているだけで1980年代に観られたような弾けるエネルギーが感じられないスムース・ジャズと、なぜか時代に逆行するようなモダン・ジャズが世界で、特に日本においてもてはやされるようになったからです。コンテンポラリーなジャズが1990年代中頃からめっきりリリースされなくなって、ジャズのもつ「融合性」に行き詰まりが感じられるようになってきたからです。とにかく、前衛的、先進的なジャズでなかったら、それは明らかにジャズが発展しているのではなく、退化していると思っていたのです。 由々しき事態は、日本のジャズ・ミュージシャンに起きてきました。若手ジャズミュージシャンが、もてはやされるようになったのは良いのですが、どの子も 「子供のころから、親の持っていたジャズのレコードを聴いて育ちました」 と言うような、いかにもの古くさいスタイルのジャズばかり演奏するプレーヤーが続々メジャーデビューしてくるようになったからです。古くさい、といってもそれを否定するつもりはありませんが、ただ昔のジャズを弾いているだけでは、クラシック音楽をやっているのと同じで、演奏における「創造性」や「他の音楽との融合」が見られなくなってきたからです。それなら、別に古いレコードを聴いているのと変わらないし、音楽として新しくもなんとも無い、という不満があったのですね。 確かに、コンテンポラリー・ジャズには行き詰まりがありました。グラミー賞は、毎年パット・メセニー(Pat Metheny)が受賞するのが恒例のようになっていましたし、新しいスタープレーヤーが出てこない。アメリカの黒人がやっていた、ブラック・ミュージックの中から、音楽性が二方向に分かれていって、片方はストリートを舞台にするヒップ・ホップでしたが、もう一方のソウル・ミュージックを基本にする、リズムよりメロディー重視の黒人ミュージシャンが、ジャズのプレーヤーと接近していって、黒人のジャズプレーヤーがR&Bテイストの作品をリリースするようになっていって、フュージョンがもともと持っていた、「黒人音楽(ジャズ)と白人音楽(ロック)の融合」という図式が崩れていって、よりアメリカの黒人カルチャーに近い方向性の音楽が主流になっていったのです。 しかし、それによってジャズ特有のものであった、「アドリブ」とか「プレーヤーの際立った個性」というものが薄まっていったのも事実です。1980年代に活躍していた数々のスタープレーヤーが、年齢的にピークを越してくるようになって、録音技術の発達も伴って、演奏技術の魅力や、ジャズならではの他のジャンルの音楽へのアプローチ、というものが軽視されるようになってきたのです。特に、日本ではフュージョンと言うと、「カシオペア」や「スクエア(アメリカに進出するにあたって、同名のグループがあったために、名前をTスクエアにしたのであって、フジテレビのF1中継の番組のテーマ曲「トゥルース」などでTスクエアを知った人は、はっきり言ってこのグループの歴史のごく新しい部分からスタートしているのです)」が幅を利かせていて、これらのグループのプレーヤーはみな「超絶技巧」がウリの人たちだったので、「フュージョン=テクニック自慢の音楽」と言う偏見がまかり通っていました。そのため、フュージョンというと、なにか「情緒に欠ける人たちの音楽」というような偏見をしている人が、当時多かったのを覚えています。今でもそういう方は多いのではないでしょうか。 しかし、ジャズ、という音楽は常に「創造的破壊」をしながら進化していく音楽なので、一部の音楽家、特に「帝王」マイルス・デイヴィスの門下生たちには、実験的な試みを絶え間なくしている人が居たのです。代表格が、このブログの「ライフログ」にも掲載している、「New Standard」をリリースしたハービー・ハンコック(Herbie Hancock)や、アントニオ・カルロス・ジョビンの音楽をフューチャーした「ツイスト・オブ・ジョビン」やモータウンレーベルの懐かしいソウルミュージックをフューチャーした「ツイスト・オブ・モータウン」をリリースしていたリー・リトナー(Lee Ritenour)です。特に、「New Standard」はビートルズからプリンス、シャーデーからサイモン&ガーファンクル、というありとあらゆるジャンルの通好みの名曲をモダン・ジャズにアレンジして、編曲と演奏の妙を聴かせてくれました。しかし、そうした前進的な作品群が、次々と忘れ去られていったのです。そして、そこへやって来たのが、「モダン・ジャズ回帰ブーム」とでも言うものだったのです。 私「最近のジャズって、ちょっと、何か、う〜ん、進化していないような感じがするんですけれどね〜」 恩師「そっか〜?、古くてもいいもんはいいもんだぞ」 私「なんか、最近日本のジャズの若手ミュージシャンって、モダン・ジャズばっかりやっているじゃないですかあ。あれって、なんかジャズが退化しているように感じるんですよう」 恩師「そりゃ、昔のジャズをリアルタイムで聴いていない連中が、今になって聴き返してみると、『お〜、すっげ〜』となる事は、そりゃあるさ」 私「でも、前進的じゃないじゃないですかあ。新しい試みとかが全然無くって、つまらないですよう。フュージョンが良かった頃は、どんどんいろんな要素を吸収していって面白かったんですけどねえ」 恩師「でもさ、その、むかしさ、何にも無い所から、『ガーッ!』と作り上げていった頃の音楽のエネルギーっていうのは、そりゃ今の音楽とは比べ物にならないわけで、それにイマドキの若い連中が衝撃を受けるのは、当然だと思うけどなあ。'50年代のものなんて、そりゃ凄いもん。」 私「でも、ジャズって、進化していくものだと思うんですけどねえ。なんか今のジャズ・シーンって退化しているように感じるんですよねえ。いろんな要素を加えていって大きくなっていく、そういう前進性が無いと・・・」 恩師「まあ、新しいものが出てこないと、こちらとしても商売的には、困っちゃうけどさあ、でも、いいものはいいじゃん」 私「いや〜、なんか今さらモダン・ジャズやられても、ジャズがクラシック化していくだけで、音楽として形骸化しちゃって、それでは音楽として生きていないって言うか、ジャズとしての意味が無いような感じが・・・」 恩師「いや〜、オレはさすがに、そこまで言い切るキャパは無いな〜。そりゃ新しいものが出てくるに越した事はないよ。でもさあ、現実問題、もうあらゆるものが出尽くしちゃったんじゃないの?」 私「でも、今さら古いものに戻ってどうなの、って感じなんですけどねえ。ハービー・ハンコックとかは、今でもアグレッシヴな作品出してますし、今さら古いスタンダードをやられても、それはもう過去にやり尽くした曲だし。」 恩師「お前、曲作りゃいいじゃん。どうせ職に困ってるんだったら、思い切ってやってみたりとかしないの?」 私「いや〜、先立つものが無いと、ん〜ん、曲作ったからってすぐお金もらえるわけでも無いですしね〜」 まあ、結論の出ない話を、恩師は自分の用事をこなしながら、グダグダと小一時間くらい、ああでもない、こうでもない、と音楽談義をしました。 私のスタンスとしては、「New Standard」のように、ジャズのスタンダードだけでなく、既成のポップスのヒット曲でさえも、ジャズにフィードバックしていって、ジャズの底力、と言うものを見せて欲しい、ジャズのプレーヤーがどれほど創造性豊かな演奏や編曲を為し得るかをはっきり打ち出して欲しい、と言うのと、ラテンやアフリカの要素を「喰って」いきながらもっと斬新なジャズを聴かせて欲しい、と言うものです。恩師も、本職はレコーディング・エンジニアなので、新たな音楽が録音されていかなくなると、職業的に困るという点で、新しいものを待望している、と言う点では同じです。 特に、私が好まないのは、日本においてクラシカルなスタイルのジャズプレーヤーがもてはやされて、それにアメリカの大御所と呼ばれる人たちがお墨付きを与えている、という構図が音楽文化の進化を妨げているように映る事です。たとえば、いきなり旬な人を引き合いに出して、俎上に上げるのも悪い様な気もしますが、上原ひろみという、えらく評判の高い女性ジャズピアニストがいます。先日、テレビで彼女がチック・コリアに褒められた、という演奏をやっていたのを聴きました。 確かに、テクニックは高いです。いかにもチック・コリアが好みそうです。コードの感覚が、複雑なものを持っていて、複雑なコードをブロック演奏すると、音の構築力の高さは良く解ります。しかし、じゃあ単音のフレーズはどうか、というと、これが実に味気ない。これでは、複雑なコードを使った演奏は出来ても、メロディーやアドリブソロが単に難解なだけで、美しさや心地いい流れを演出できそうにない、と思ったのです。だから、若手の中では、確かに目立つかもしれませんが、それほど上手いとは思わないのです。ジャズピアニストにも、それぞれ好みがあるでしょうが、理論が確立されているジャズという分野において、ちょっと聴いたときに難解に聞こえるものを紡ぎ出すのはさして難しくないのです。むしろ、音数が少なければ少ないほど、ピアニストとしての本当の力量が試されるのです。少ない音数の演奏において、どの音を選ぶか、というセンスは理論で補えるものではなく、音楽における美的感覚を磨かないと、つまりそういう美しい演奏の経験を積まないと、なかなか出来るものではありませんし、このセンスばっかりはやはり素質の問題もあります。そういう意味では、最近やおらどうした事か、NHKの音楽番組でピアノを弾くようになった、木住野佳子さんなんかは、すごく高いセンスを持っていて、いつも演奏を聴くたびに溜息が出るのですが、日本のジャズファンは難解なものばかり好きなんでしょうかねえ、と思ってしまいます。難解なジャズのスタイルに留まっているうちは、まだまだだと思ってしまうのです。 一方で、ラテン・ジャズの部門は「燃え上がって」います。こちらは、そもそも'70年代にニューヨークで、キューバン・ラテンとジャズを融合させて、サルサを誕生させています。サルサというと、もっぱらラテンのヴォーカル・チューンばかり思い浮かべてしまいますが、もともとはニューヨークに移り住んだキューバ系のミュージシャンによって、ジャズの革新的スタイルとして、インストゥルメンタルからスタートしたのです。代表格が、さきごろ逝去したティト・プエンテ(Tito Puente)でしょう。そうした流れで、現在ブラジルやキューバのジャズミュージシャンで、過去にフュージョンにおいてアメリカで活動していた人たちの、再評価がされています。典型的なのは、デオダート(Deodato)でしょう。デオダートは、もう新作を作る予定は無さそうですが、今、ブラジルフュージョン界においてデオダートと並ぶ経歴の持ち主で、マリア・ヒタ(Maria Rita)の父親でもある、セーザル・カマルゴ・マリアーノ(Cesar Camargo Mariano)が、ブームになりつつあり、再発盤はもちろん、新作も手がけています。 私が最近聞いたCDの中で、戦慄を覚えるほどの作品も、彼の演奏によるものでした。 写真は、そのアルバム。セーザル・カマルゴ・マリアーノが1960年代に所属していたバンド、「サンバランソ・トリオ」の頃からの相棒、ホメロ・ルバンボ(Romero Lubambo)と、ピアノとギターだけによる、即興性の極地を体現した演奏を聴かせてくれる「Duo」と言うアルバムです。もう、聴いていてスリルのあまりに、落ち着いた音楽なのに体が勝手に動き出しそうな演奏のオンパレードです。
by journalism-1
| 2006-02-02 21:35
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